Quantcast
Channel: 長文日記
Viewing all articles
Browse latest Browse all 511

2300年目の情報革命とプログラミング教育

$
0
0

 情報革命が農耕革命に匹敵する大きなムーブメントになるかもしれないという話で、僕自身はたとえばデジタルコンピュータの発明を120年前のハーマン・ホラリスまで遡ってもいいのではないかと考えるようになった。


 けれどもよく考えると、情報革命そのものは紀元前三世紀のアレクサンドリア図書館からスタートしていると言えるかもしれない。


 なぜなら現在我々が当たり前のように使っている「検索(サーチ)」「索引(インデックス)」といった情報の整理技術は図書館でうまれ、図書館で育った図書館情報学がもとになっているからだ。


 そもそも人類が情報を書物の形で残すことになったからこそ、今の我々の文明がある。

 残された膨大な文書は、時代とともに風化し、消え去り、それでも新しいテクノロジーで発掘や発見が行われ、完全ではないもののおぼろげに過去数千年の歴史を浮かび上がらせる。


 情報を記録し、分析することが現代文明の大きな礎であり、歴史を重ねてきたからこそ高度な文化や科学技術を獲得できたことは想像に難くない。


 とすると、文書の発生時点から数えれば、既に情報革命は23世紀に及ぶ長い年月を経過していることになる。

 イスラエルで2万3千年前に起こった農耕革命が、中国に伝わるまで(または中国で自然発生的に農耕生活が開始されるまで)、実に1万年近い年月を要したことを考えると、2300年というのはそれほど長過ぎるとも思えない。



 思えば、人類は気が付くと支配するものとされる者に分かれていた。

 産まれた時から決まっているのである。


 所有、私有の概念が産まれた瞬間には、まだ情報という概念がなかった。

 図書館に一般の人が入れるようになるまでにはかなりの年月を要した。なにしろ情報を扱うというのは最初は貴族や神官などだけに許された奥義だったのである。逆に言えば、それだけ情報というものの重要さを過去の為政者たちが熟知していたということだろう。


 市民図書館が誕生するためには農耕革命以降にどさくさに紛れて出現した王侯貴族の末裔を市民が血祭りに上げる必要があった。図書館や情報を独占することはまさしく権威の象徴と見做されていたからだ。


 18世紀のフランス革命以後、初めて書物は一般市民の目に晒されることになる。


 この、情報を市民の手に、というムーブメントはまたたく間に全世界に広がり、次々と市民図書館が出来た。


 20世紀以降の日本人がとても恵まれているのは、初等中等教育が義務化され、貧富の差に関係なく誰でも否応なしに小中学校に通い、ごく自然に文字や歴史、算術といったことを学ぶ機会に恵まれることだ。


 こうしたことが平然と行われるようになったのは、尋常小学校の授業料が無料になって以来である。


 よくよく考えると、義務教育だって情報革命の成果と言えなくもない。むかしはそのような教育は貴族しか受けられなかったのだから。


 我々がプログラミング教育に熱心になるのも、もしかすると2300年続く情報革命を背景とした文脈がどこかで我々の背中を強く後押ししているのかもしれない。


 常識的に考えれば、近視眼的には本来、情報や知識は独占した方が有利である。なにも安いお金と引き換えに人様に教えるメリットはなにもないようにも思える。


 しかし大局的に考えると、個々人の能力に限界がある以上、自分の周囲の能力を底上げしなければならない。しかも、誰もが教育されたら同じ水準で物事を考えられるわけではなく、人によって向き不向き、得手不得手があることを考えると杓子定規には測れない。


 だから、なるべく早い段階から個々人の得手不得手を見極め、彼らが得手に帆あげて研鑽ができるように教育手法が研究され、試行されているのだろう。プログラミング教育によって知的水準の底上げを行い、チームを組んで対抗しなければ諸外国に遅れを取る、というのがプログラミング教育の教育の背景にある考え方だ。


 その意味ではプログラミング教育が果たす役割は重大である。


 プログラミング教育以前と以後で比較すると、プログラミング教育以前の教育とは、基本的には知識の詰め込みである。


 記憶力が優れ、計算能力の優れた人間が賢い人間であるという価値観だ。

 しかしこの2つの能力はコンピュータという存在の出現によって相対的に急激に価値を失いつつある。


 どれだけ記憶力が優れていても、コンピュータの検索能力の助けがあるとないとでは大違いだ。

 どれだけ計算能力が高くても、一定以上複雑な問題はコンピュータの助けがなくては解くことが出来ないのはもはや常識である。


 経営や事業企画のような、一見するとコンピュータと直接関係のなさそうな分野でさえ、未来予測や事業予測といった領域でコンピュータを正しく使いこなせるかどうかは重要な差として跳ね返ってくる。


 コンピュータを正しく使いこなせるかどうかは、コンピュータの特性を理解して使えているかということでもあり、このとき初めてプログラミング教育の必要性が生まれてくる。


 プログラミング教育が行われる直前まで、プログラミングとは特殊技能であり、一部の人間だけが独占的に習得し、行使するものだった。そしてそれが高い価値を産み、高い賃金を達成した。


 ところがプログラミング技術が高度化すると、そもそもプログラミングそのものにあまり高い知性を必要としなくなった。大半のことが言語処理系やフレームワークによって自動的に処理されるようになった結果、プログラミングの複雑さは圧倒的に簡素化された。このような時代になって初めて、初等教育段階でのプログラミング教育が可能になったのである。


 図書館が情報の独占を貴族の手から奪ったように、プログラミング教育以後は、知的能力の独占を職業的プログラマーの独占から市民へ解放されるきっかけになるのだと思う。人工知能がここに加わるとさらにそのムーブメントは加速するだろうなあ。



 


Viewing all articles
Browse latest Browse all 511

Trending Articles



<script src="https://jsc.adskeeper.com/r/s/rssing.com.1596347.js" async> </script>