目覚めれば道頓堀である。
一昨日は福岡から厳島神社、道後温泉で車中泊して、昨日は友達が准教授をやってる研究室に遊びに行って、学生の発表を聞いた。
いいのも悪いのもあったが、概ねいい発表だった。
中でも驚いたのは、前から知っていた学生が大きく成長していたことだった。
これは相当な勉強をしたのだな、と感心する内容で、その後のディスカッションも大いに盛り上がった。
最初の頃、彼はふわふわしているように見えた。
口数少なく、ただ「神になりたい」と言っていた。
思えば大物である。
少ない口数で、出た言葉が現人神への野望なのだ。
それが学部生の頃だから、いまから数年前だ。
もう大学院生である。
以前会った時、彼は自分が何者かになりたいという欲望と、実際に自分にできることとのギャップに苦しんでいるように見えた。
今、彼は少なくともどうすれば自分がなりたい存在になれるか、その道の入り口がどこにあるのか、それをようやく分かる場所に来たようだった。もちろん先は長い。彼はまだ若く、神への道は果てしなく険しい。
彼が言った「神」が、どういう意味なのか。
それは例えば2chで神降臨と言われる程度の意味なのか、それとも神社や神宮ができて祀られるレベルなのか。それはわからない。この世界には神と呼ばれる人間が何人か居る。それでいい。それぞれの業界にそれぞれの神。ここは八百万の神々が集う国、日本なのだ。
しかし「神になりたい」という気持ちをストレートにぶつけ、そのための道を探すことは悪いことではない。普通の男は、口だけだ。実際にはその道を探す努力も、神への道の入口にたどり着く根性もない。それよりずっと手前で、誰でも達成できる小さな成功を得て、それで満足してしまう。
神への道を目指す男は、決して典型的な幸福観に満たされることはない。
神になること自体が彼の求める幸福であり、しかし神を求めること自体が、人でなくなるということを意味する。人並みの幸福観と別れを告げ、求道した先に神になれるかどうか、おそらくは決まるのだろう。
一人の生意気な少年が、男として大きく成長した姿を見て、僕は気持ちよくバーボンソーダを飲んだ。
いい酒だった。
さて、今日は東京に帰ります